創作の手法

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テレビで、ですが、初めてピナ・バウシュのダンス作品を観ました。
念願の初バウシュです。
円満の発売中です。
戦艦の爆砕級です。(なんのことやら)

昔、イリ・キリアンのNDT(ネザーランド・ダンス・シアター)というやはり大御所ダンスカンパニーの舞台を観たことがあります。
しかも生(ナマ)で! チケットは1万円前後しました。
なけなしのナマ・キリアンです。
駆け足の(以下略

キリアンの時はどうにも難しくて、自分にはダンスはわからないのかもと思いましたが、今回のバウシュの方はとても(よい意味で)引っかかりました。なんなんだこれは、という。身体がうずうずしてきて、なんか踊りながら観てました。踊り観、という新しい観賞スタイルを編み出してしまいました。
ところで「踊り食い」というのがありますが、あれって食べる側が踊りながら食べるわけじゃないから、言うなら「踊らせ食い」か「踊られ食い」じゃねえの? もしくは食べられる側目線で「踊り食われ」でもいいです。

さて今回放映されたカフェ・ミュラーという作品の後に、インタビューでピナ・バウシュの創作の方法についての話がありました。

シェイクスピアの「マクベス」をモチーフに作品を創った時のことです。彼女は戯曲を何度も読み研究しました。そしてその中から自分にとって大切だと感じた文章を抜き出して質問をつくり、その質問に対する出演者の答えを材料にして舞台を創ったそうです。以来、この手法は今日に至るまでしばしば用いられているとのことでした。が。彼女は続けて話します。

「けれども、私の方法というのものは本当にはありませんし、
方法を持とうと思ったこともありません。
私がやっているのは、
どういうやり方でなら自分の言いたいこと、
表現したいことのエッセンスを


見つけられるか


の模索です」

そういえば似たようなこととして、小説家の高橋源一郎は
「小説家は、小説の書き方を、一人で見つけるしかない」
また演出家のピーター・ブルックは
「一定の公式など存在しない。決まった方法などありはしない」
ということを書いていたのを思い出しました。

作品を創るということは、「表現したいことをいかにして作品という形に昇華するか」であるということと同時に、その前提にある、自分でもまだよくわかっていない「表現したいこと」を、「自分の中からいかにしてすくい上げるか(=見つけ出すか)」ということでもあり、ということでもあるどころか実はこっちメインなのかもしれない、なぁ、と感じました。