サンデルJUSTICE:「何が正しいか」は知らないうちにできあがる

何が正しいか

正義という言葉にあまりいいイメージをもっていない。たぶんそれといっしょに、戦争とか攻撃とか処罰とか、そういうイメージがくっついてくるからだろう。何が正義で何が悪かというのはそう簡単に言えるものではないわけだから、誰かが正義を振りかざしたりすると、まず胡散臭いと感じてしまう。

一方で、誰もが自分の中で、何が正しくて何がそうでないかという感覚を持っていて、それに沿って行動したり決断したりしている。その感覚は当たり前すぎるせいか、めったに検証されることがない。知らず知らずのうちに、善悪の基準というものはできあがっているのだ。この本を読んで気がついたのはそのことだった。

いや、善悪についてはそれなりに考えてはいたんだけど、それにはどうも死角があった、という方が正確かもしれない。僕が持っていたのは主に、サンデルの言う「幸福の最大化」「自由の尊重」の基準で、死角は「美徳の涵養」のあたりだ。たぶん多くの人もそうだろう。

あまり適当なたとえではないけど、思い出したことがあった。

ある友人が、古本をアマゾン経由で売っていた。その中でひとつの本が、内容的には特に優れたところはないけど絶版になっていたため、定価よりもかなり高い値段で売れそうだったという(こういうのはアマゾンで古本を売るときの醍醐味といえる)。
ところがその友人は、「そういうのはフェアではない」とかなんとかで、アマゾンで売るのはやめて、町の古本屋で二束三文で売り払ってしまったと言うのだ。

それを聞いたとき、「いったい何を言っておるのだこの男は?」「アホか?」と思った。というか言った。すると彼はちょっとびっくりしていた。びっくりするのはこっちだ。 まあ今でもアホかとちょっと思うけど、その、合理的にはうまく説明できない、でもこだわりたい善悪の感覚というのも、人間にはそなわっているのかもしれない。

政治的な生きもの

この本から考えさせられたことがもう一つある。

僕は自給自足のような生き方に何となく親しみを持っている。隠遁とまでは行かなくとも、少欲知足というか、世間とはちょっと距離をおいて、欲や消費を抑えてシンプルに、というスタイルに。自分にとっての「いい生き方」というのはそういう方向だろうなと。

ところがサンデルの考えでは、「いい生き方」は「何が正しいか」の感覚と密接に結びついていて、「何が正しいか」は内省だけによって発見することができず、「社会全体で取り組むべき試み」だと言うのだ。
アリストテレスにいたっては、「都市国家に住み、政治に参加することでしか、われわれは人間としての本質を十分に発揮できない」と言う。それは、美徳というのは楽器の習得と似ていて、実践によって身につけるものだから。つねに現れる新しい状況に対しては、一つの普遍的な原理だけでは判断できない。その都度(社会にとっての最善を考えて)適切に対応していく実践が必要だから、とのこと。

(政治的に生きるようにすすめる説明の中では)これまで聞いた中では一番説得力があった。世間と距離を置くという、ブッダの説くような生き方とは対照的だけど。 どっちにしても、「何が正しいか」や「美徳」「道徳」については、もっと注意深く探っていきたいと思った。