天然エンダウメント
Photo by H M Cotterill
演劇ワークショップのエクササイズの一つに、「エンダウメント」というものがある。 実にたわいのない、素朴なエクササイズである。
例えばここに靴紐があるとすると、これを靴紐以外のものに見立てる。蛇だ!とかってびびってみる。爆弾の導火線になぞらえて点火してみる。あるいはムチに見立てて女王様になってみたり。4~5人くらいで、アイデアが浮かび次第次々に演じてみる。別に正解があるわけではないし、むしろ無理があったときの強引さが面白いくらいのゲームだ。
エンダウメントendowmentというのは英語で「授けること」の意。自分の発想を対象に授ける(=見立てる)ことから来ている。 サラリーマンが傘をゴルフクラブに見立ててスイングするのも、落語家が扇子を箸や筆に見立てるのも言ってみればエンダウメント。
お笑いでいう「ボケ」もまた、エンダウメントの親戚と言えると思う。ドレッシングを見て「これどこの国のビール?」だとか、小道具的なものからもっと範囲をひろげてみるなら、ハンバーガー屋のカウンターで「機種変したいんですが…」など。
そもそも演劇は(というか芸術全般は)エンダウメントだらけだ。
舞台は、あるときはお城に、あるときは砂浜に、時には違う惑星にだってエンダウメントされる。役者たちは架空の親子に、先生と生徒に、王様と召使いに、動物や怪物や亡霊にエンダウメントされたりもする。小道具から空間全体、さらに人間関係までエンダウメントが行き渡っている。
演劇だけでもない。 一万円札は、みんなが「これはお金だ」とエンダウメントしている紙切れであり、何らかの理由で(インフレとか?)みんながそれをお金と見立てなくなってしまったら、同じ一万円札はタダの紙切れである。
そんな調子でエンダウメントの範囲や抽象度を広げて考えてみると、いわゆる世界(とか世の中)とかって呼ばれているもの自体、エンダウメントされたもの、っぽいなと思えてくる。
僕らは「世界はだいたいこういうふうになっている」とエンダウメントしていて(無意識のうちに)、そこで生活していて、でもそれはしょっちゅう、実際の世界そのものと違う「見立て」にすぎないんじゃなかろうかと。
なので場合によっては、ほんとうに傘をクラブだと思い込んでゴルフコースを回っているような見当はずれなことをやっているのですきっと。 だからと言って、その多分にでたらめな「見立ての世界」から引っ越すことはできない。なにしろ、見立てられた世界ではない世界、世界そのものというのはどこにも無いだろうから。ギターやピアノを弾くことはできても「楽器そのもの」を弾くことができないのと同じように。ん? たとえ変かな。よくわからなくなってきた…。
ちなみに、かのシェイクスピアも「この世界はすべてこれエンダウメント」と書いたとか。
(※書いてません)