崖物語:インタビューから見えるハケ(国分寺崖線)・武蔵野の歴史

凸凹地図でみる国分寺崖線1/2 byはけの学校

崖のはじまり

むかしむかし、あるところに大きな川があった。長い年月をかけて、川は大地を削り、やがて河岸段丘ができた。削られた縁の部分はゆるやかな崖になった。こうして、高低差5~16m、長さ25kmに及ぶその崖が生まれた。

崖は、おおまかにいって南に傾いており、日当たりがよかった。また、付近には常にたくさんの水が湧いていた。水があり、日当たりがよく、眺めがよいこの土地に古代の人々は暮らすようになった。

「野川沿いは、上から下まで本当に遺跡が多い。世界中、川のそばには遺跡があるが、ここだけめっぽう多い。暮らしやすい、だけではない魅力があったのだと思う。ひとつは私は景観だと思っている。縄文時代の富士山はいまの富士山と形が違うが、見えたことは確かだろう。 景色がどうして大事かというと、当時の人たちにとってカレンダーがすごく大事。お日様がどこからのぼってどこへ沈むのか、星の位置がどうだとか、縄文時代には四季があったので、自然の恵みをいただいている生活の中で、この時期からこれが採れるとかの目安になる。日本全国で縄文人はそういうことをしていたらしいと言われている」(インタビュー:林さん)
「貫井遺跡の上なので遺跡は多く、雨が降ると土器のかけらがたくさん出た」 (前田さん)
「このあたりはほじくるとやたら土器が出てきた。小学生のとき金属の刃物を発見した。先生に見せたら持って行かれてしまい、その後どうなったか分からない」 (富永さん)
「天文台構内古墳は昭和45~46年と平成16~21にかけて調査をした結果、この古墳7世紀後半のもので全国的にも稀な上円下方墳と呼ばれる特異な形と判明し、平成17年度に国史跡に指定された府中市武蔵府中熊野神社古墳につぐ4例目となった。その他石器時代~縄文時代、石器時代の鏃などはいっぱい出てきたようだ」 (中桐さん)

国府と寺

弥生時代になるとしかし、崖の周囲から人々の気配が急になくなってしまう。湧水が冷たく稲作に向かなかったため、みんなよそに移って行ったのだった。
崖や武蔵野が再び舞台に登場するのは大化の改新の後になる。中央集権化で全国の国が畿内五か国と七道に分けられ、武蔵国の国府が現在の府中に設けられた。また深大寺、武蔵国分寺も崖の近くに建てられた。武蔵国分寺については、この地が古代中国の信仰でいう四方の方角を司る霊獣、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武に守られていると考えられたという。

なお「武蔵野」の名が初めて史料に現れるのは万葉集だが、中世になると古今和歌集、後撰和歌集、新古今和歌集などに多数の歌の題材として詠まれるようになる。それらによると当時の“武蔵野のイメージ”は、「野草の野原」、「月の美しい、茫漠としてどこまでもつづく原野」といったものであったようだ。

「この辺は水があったから国分寺ができた。えらい坊さんだって、水がなきゃダメだ。昔の人は口伝えに聞いて、ここにしたんだろうと思う。多摩川が近くて、崖があって水が湧いていて、武蔵路(七道の一つ東山道と武蔵国府をつなぐ道)に近かった」 (本多さん)

江戸時代と治水

武蔵野台地の水はけがよいため、坂下(崖の下)では豊富な水も、坂上では逆に貴重なものだった。江戸時代になると近郊で新田開発が進められ、これにともない、羽村から四谷まで玉川上水ができる。この上水は、水が貴重な武蔵野台地にあって非常に画期的なものだった。またこの時代に多摩川と荒川の分水嶺を正確になぞるなどの土木技術は、後世の人々も驚かせている。

「中村家は江戸時代の新田開発から300年続く、国分寺内藤新田の分家」 (中村さん)
「江戸時代なんかははけの雑木林でみんな炭を作ったらしい」 (本多さん)
「ここはおそらく享保年間に入植した。1700年代。玉川上水ができる前。桧原の方から出てきらしい。養蚕がうまかったようで、それで財をきずいたと。50人ほど雇っていた」 「玉川上水から取っている分水、福生のくまがわ分水、野火止分水、砂川用水で取っている水をこの辺に引っ張ってきている。生活用水は1キロくらい汲みに行った。水は貴重だった。飲み水は家の井戸だった。はけを下って行くということは、遠かったのでなかった。母は関野町から来て、向こうは用水の水が流れていたので、嫁に来たての頃は水の使い方が荒いと言われていた」 (荒畑さん)

近代化と鉄道

近代に入ると、軍隊の移動と物資の輸送を担う鉄道建設が重要になってくる。中央線の前身である甲武鉄道は、明治22年(1889)に新宿-立川間が開通した。
鉄道はひとつには養蚕のためでもあった。養蚕は、江戸時代後期に画期的な技術の開発があり、良質な生糸を生産できるようになっており、明治には隆盛期を迎え「外貨獲得産業」として近代化の礎を築いた。農家ではカイコガを「お蚕様」と呼ぶほどだった。

また多摩川は良い砂利がとれたため、東京の近代ビルや建設事業に役立てられた。現在の西武多摩川線は、もとは砂利や砂を運ぶための路線だった。
鉄道が開通し便が良くなったことと西欧で別荘が流行した影響で、明治末~昭和初期にかけて中央線沿線に多くの別荘が建てられた。代表的なものに殿ヶ谷戸庭園(旧岩崎別邸) ・日立中央研究所 (旧今村別荘)・ 滄浪泉園(旧波多野別邸)があるが、前田家の三楽荘もそのひとつといえる。

「曾祖父・前田武四郎が、大正年間に別荘としてこの家を建てた。当時は何もなかった。文献を読むと、坂に面した所に家を建てるのはステータスシンボルだったので、それで祖先は裕福だったのかなと思う。非常に風光明媚な土地だと感じている。日比谷公園を設計した造園の方が配置をしたそうだ」 (前田さん)

なお「三楽」の名前には孟子から取ったというもの(君子に三楽あり)と、もう一つ別の由来――前田武四郎・徳富蘇峰・頭山満の三人で憩える場所――がある。当時の財界、政界、ジャーナリズムの第一人者が度々ここに集ったわけで、(結果の良し悪しはおいておくとして)この崖から始まった大きな動きがあったといえるかもしれない。

明治の武蔵野の様子については
「林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのやうに密接している処がどこにあるか」
と、国木田独歩が「武蔵野」に書いている。

第二次世界大戦

昭和初期になると、武蔵野には軍需工場や飛行場などが次々と進出してくる。今の国際基督教大学の場所は当時世界有数の航空機メーカーの中島飛行機があり、調布飛行場は陸軍の飛行場、東京経済大学と早稲田実業学校は大倉財閥系の南部銃製造所という兵器工場、昭和記念公園は立川陸軍飛行場だった。そのため、この周辺は空襲も激しかった。

「昔は大沢は豊かな農村という感じ。調布飛行場ができて変わってきた。昭和12~3年頃から買収を始めた。軍ではなく東京府が。私のところも畑などたくさんあったが全部とられた。宅地まで。だんだん工場や飛行場にとられていった」 (榛澤さん)
「もともと持っていた八町歩の畑はおおよそ陸軍技術研究所(今の学芸大)になってしまった。全部買収された。終戦後返すという法律ができたが、結局一部だった。その頃は売るのは3円から、高くても5円だったが、買ったのは15円。畑地の方は借りた。父は大変な苦労をしたと思う。土地を借りてなんとか生きてきたことを忘れるなと言われた」 (荒畑さん)
「本多家はリオンの向こうまで土地はあった、戦前の領地買収で持って行かれた。リオンの前は小林理学研究所といって軍事産業の研究なんかもしてたらしい。太平洋に浮かんでいる敵の戦艦を探知する研究なんかもしてた。その研究を利用して補聴器や魚群探知機などになった。そういう研究が軍の力で飛躍的に進化した。農薬会社もそう。殺虫剤も、毒ガスの研究なんかから発展している」
「空襲の記憶はある。この家すれすれにB29がきた。中央線を目印にくる。日立めがけて本多のあたりに落とされた。中嶋飛行機が一番やられた。戦争も、もう少しもう少しと思って頑張った。そういう教育だった」 (本多さん)
「戦中はタヌキやウシガエルも食べた。タヌキ汁は美味しかった。キツネ、ヘビ、ウサギは美味しくない」 (富永さん)

高度成長期

高度成長期には武蔵野も大きく発展するが、同時に環境の問題も出てくる。崖線はその地形から部分的な都市開発にとどまるものの、野川の様相の変化は大きかった。

「高度成長期になると下水が田んぼに入って、稲がみんなバカになっちゃう。実が入らずスカスカになる。下水がみんな田んぼに流れ込んじゃうので、石けん水がすごかった。それでお米が臭くなる。売れないし食えない。それで、昭和36年くらいに田んぼはやめた」 (本多さん)
「子どもの頃は湧水は多かったけど、宅地化やアスファルトの道路、下水に水が流れて湧水がなくなった。野川は今はけっこう水があるのが、まえは全然なかったし「どぶ」だった。ゆすり蚊が多かった。子どもの頃は野川で水遊びをした。うなぎをとっていた。獲れる魚はみんな食べられた。だんだん水が汚れた。特に上流に砕石工場か何かができて、それを洗う水が真っ白の時期があった。国分寺の方の電車庫の排水とか」 (榛澤さん)

崖のこれから

このように日本の来し方を古代から眺めてきたともいえる崖と武蔵野。これからどうなっていくだろうか?

「遺跡のことなどを含め学校などで、ここがどういう土地なのか、まずは子供たちに残していくようにしたい」 (前田さん)
「今のまま残してほしい。都市計画がきちんと出来ていない。(都市道路計画整備に)STOPをかけるのは今しかない」 (富永さん)
「これからどうなるか分からないが、なるだけ現状のまま維持してほしい。自然が長いスパンで変わっていくのはいいが、人間がいきなりガンガン変えてしまうのはあまりうれしくない」 (林さん)
「行政の立場で世田谷、国分寺と順次実践した『崖線フォーラム』に関わった。はけについては農家である当事者としてもよく理解しているつもりであるので、はけの農家がつながることができたらが理想」 (中村さん)