嘘つきは誰?名探偵に学ぶデマやステマの見極め方

木の葉を隠すには森

「賢い人は葉っぱをどこに隠すか。森の中だ」
G.K.チェスタトンの推理小説「折れた剣」に出てくる言葉である。
たしかに、ある特定の葉っぱを、たとえばタンスの奥や本などに挟んで隠すよりも、森の中に無造作に置いた方が案外見つかりにくいというのはありそうだ。
まあ葉っぱを隠す機会なんてそうそうないだろうけど、とにかく隠したいものがあれば、それと似たようなものがいっぱいあるところへ紛れ込ませれば、簡単には見つからなくなるに違いない。

またこれには続きがある。
「もし森がなかったら、彼は森をつくるだろう」
「そしてもし死んだ葉っぱ(枯葉)を隠したかったら、枯れた森をつくるだろう」
「そしてもし死んだ人間を隠す必要があれば、死体の山をつくり、そこにそれを隠すだろう」

森をつくるというのはたいへんそうだけど(死体の山はもっとたいへんそうだけど)、理屈としてはこれももっともだ。隠し場所が必要でつくれるものならつくるしかない。多少不自然になるのは避けられなさそうではあるけど。

同様に、

「悪賢い人は『嘘のような事実』をどこに隠すか。『明らかな偽り』の森の中だ」
「もし『明らかな偽り』の森がなかったら、彼らは『明らかな偽り』の森をつくり、そこに『嘘のような事実』を隠すだろう」

ということが言える。
明らかな偽りというのは、「誰がどう聞いたって事実ではない」ことだ。
この「明らかな偽りの森」というのは、つくれるものだろうか?

エトス・パトス・ロゴス

人に何かを伝える上で、エトス(信頼)・パトス(感情)・ロゴス(論理)はいずれも大切で基本的な要素だとされる。通常であればこれらを高くしようと誰もが努力するわけだけど、「明らかな偽り」を語る場合はそれの逆を行けばいい。信憑性のなさ(低いエトス)、感情的な嫌悪感(低いパトス)、支離滅裂な論理(低いロゴス)を極端にして、あるいはさりげなく、話の中に混ぜ込ませるのだ。

ステマ・サクラ・ヤラセを大勢使ってこれをやれば、「明らかな偽りの森」ができあがる。大量の「明らかな偽り」の中に紛れた「嘘のような事実」はそれらと同じように見なされるようになり、やがて誰からも信じられなくなるだろう。

不自然な森

ではこれらを逆に考えてみるとどうだろうか。
不自然な森には「ある特定の葉っぱ」が隠されているかもしれないし、不自然な死体の山には「ある特定の死体」が隠されているかもしれない。
実際、チェスタトンの推理小説の主人公・ブラウン神父は、この「不自然さ」を手がかりにことの真相を見抜くのである。

そして、「不自然な『明らかな偽り』の森」である。
推理小説はおいておくとして、この現実の社会に、こんな森を見かけたことはないだろうか。

誰もが不信感・嫌悪感を抱くものを考えてみよう。明らかに頭がどうかしてしまった人や、そういった人が真顔で語る非現実的な話、恐怖を引き起こす話、不穏で不気味な雰囲気、冗長な話、わかりにくい話。
もし、そんな話ばかりが集まる森があったとしたら、そこには「嘘のような事実」が隠されているかもしれないのだ。

そして実は、そういったものが集まっている場所がある。

謎解き「集団ストーカー(組織的嫌がらせ)」

○嘘みたいな事実・・・(隠したい特定の葉っぱに当たるもの)
集団ストーカー、組織的嫌がらせ

△明らかな偽り・・・(上記以外の葉っぱ・森に当たるもの)
電磁波攻撃、思考盗聴、テクノロジー犯罪、その他誰がどう考えても理解できないような物事

これらはたいていいっしょにして語られている。WEB検索でも大量のサイト(森だ)がヒットし、Twitterでも常時大量に(ここにも森が・・・)ツイートされている。知恵袋のようなQ&Aサイトでも、2ちゃんねるのような掲示板でも。

そしてほとんどの情報が、どこかおかしい。信憑性に欠け、胡散臭く、不快で、論理的でない。時にはまともな情報も紛れているが、ニセモノが常に伴われている。そのため、すべてが「統合失調症の妄想」で片付けられようとしている。

しかし、この大量な情報の森そのものが、誰かが何かを懸命に隠そうとしていることを証明していないだろうか。

それらの情報を、
「頭がどうかしてしまった人々が、イカレタ妄想を信じ込んで話している」
ではなく、
「悪賢い人々が、頭がどうかしてしまったような演技をしている」
と思って眺めてみると、まったく違った真実が見えてくるのではないだろうか。