Life of Pi の物語

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パイの物語 (ヤン・マーテル著 唐沢則幸訳)の感想。

猛獣

やたらと長い期間にわたって太平洋を漂流するハメになる、という過酷な話である。 しかもトラと。

読み終わってまず思ったのが、このトラはいったい何者だったんだろう、ということだ。いろんな読み方ができると思うけど、そのうちのひとつには、トラはパイの獣性のようなもの、あるいはディオニュソス的な部分を実体化させた表現だ、というのがあるのではないだろうか。

極限の状況の中で、人間誰しもが持つこの性質がパイの心の表面まで浮かび上がってくる。 「身勝手さ、怒り、冷酷さ。ぼくはそれらと共に生きなければならない」

身勝手さ、怒り、冷酷さ。これらは非常に危険な性質である。まさにケダモノ。しかしこの獣性は同時に、圧倒的なパワーと、ある種の美しさをもってもいる。そしてこれらは心の一部であるがゆえに、切り離したり消去したりすることはできない。救命ボートの上でパイがトラとなんとか共存しようとすることがこの小説の主要な部分を占めているわけだけど、これはそのまま、人間が自分の中の獣性と共存しようとあれこれ骨を折る物語、としても読めてくる。

ミーアキャットの島

終盤、パイたちが満身創痍になってたどり着いた島、ミーアキャットの島。地面があり、飲み水があり、食べられる植物がある。でもどこか変な島だ。一種類の動物と、一種類の植物だけ。また、ミーアキャットたちはみんな同じ行動をする。そして人にもトラにもまったく警戒心がない(おかげでやすやすとトラに食べられてしまったりする)。

昼は楽園。パイたちはここで歩いたり食べたりしてリハビリ的に身体を回復させることができる。ところがある時パイが気がついたのは、夜、この島は酸を出して、生きものを「食べて」いるということ。一見楽園のこの島は、じわじわと生きものを絡めとっていくということ。泣く泣く、彼らは島を後にする。
(昼と夜の二つの顔。多様性の欠如。なんか、こんなのどこかにありそうで怖い)

むき出しの現実

パイのいた動物園でこんなエピソードがあった。
子ライオンの育ての親を、犬がする、というもの。
ライオンは成長するにつれ、当然犬より大きく強くなる。ところが、成長してもライオンはその育ての親である犬に牙をむいたりしないし、犬のほうでも萎縮することなく威厳のある態度でライオンと暮らしている。

この親子関係は、魔法であり幻想といえる。幻想によって、子ライオンは、哺乳類にとって考えうる限り最悪な状況である「親なし」という現実から助けられるのである。

同様に、多かれ少なかれ、ぼくらは自分のつくりだす幻想の世界に生きている。家が雨風から身を守ってくれるように、この幻想はむきだしの現実からぼくらを守ってくれる。パイに神様がついていたように、適切な幻想は何にもまして貴重なものだ、と思えてくる。

また、ぼくらが最も嫌悪するものや、目をそむけたくなるものは、この幻想をおびやかすものでもあるのだろう。この小説を読むと、むき出しの現実――乾ききって、酵母の欠如した事実――の、不気味なまでの「どうにもならなさ感」を垣間見せられる気がする。

そんなこんなで、波乱の第2章、さらに波乱の第3章と読み進んで、たどり着く最後の一文(チャプター100)。さりげなくぐっとくるものがあった。

物語や宗教や幻想や夢って似ている。諸刃の剣なところも。それで僕は普段、そういったものにはどちらかというと距離を置いている。でも、それらがなぜ存在して、多くの人に必要とされているのか、というところにも、目を向けないとわからないことがあるんだろう。

※追記:2013年、映画化された「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」を観た。アン・リー監督。こちらも幻想的な映像で楽しめた。